| ―――少年時代はどんな職業に憧れていましたか?
当時は少年野球チームにも入っていまして、阪神、南海、巨人あたりが好きでした。でも私がなりたかったのは野球選手ではなく、野球の実況をするようなラジオのアナウンサーだったんです。実況中継の真似もよくしていましたねえ。「ピッチャー、第一球投げました!」みたいにね(笑)。
まあ、その後、保険会社に入ってからは人前で話すことが大変多く、今もいろんな所で講演する機会があるのですが、あの頃にアナウンサーに憧れて喋る練習をしていたことが、なんとなく役に立っているのかもしれませんね。
―――学生時代に夢中だったことは?
私は芥川賞作家の中上健次の出身高でもある新宮高校に通っていたのですが、その当時からとにかくよく勉強をしていました。大学進学を目指してまっしぐらに、というより、おとなしくて真面目な高校生という感じでした。立教を受けたのは、母がクリスチャンだったことと、学習院にいたいとこが勧めてくれたからです。英語が比較的得意だったので、高校の先生には東京外大を進められたりもしましたが、母の強い希望もあって立教しか受けませんでした。
大学では経済学部経営学科に進み、立教には遊びのサークルもたくさんありましたが、先輩たちと経営管理研究会を立ち上げて、海外の経営学者の論文を分析したり、企業見学に行ったりしてマネジメントの勉強にいそしんでいました。大学生の本分に従って本当によく勉強していたので、卒業する時はかなりいい成績でした。
―――新卒で安田生命に就職された理由は?
ゼミの先輩が安田生命にいまして、彼に新宿西口の本社に連れて行ってもらったんですが、駅前にどーんとそびえている本社ビルをひと目見て、こんなすごい所で仕事ができたらいいなあ!…と心を動かされましてね。まだ小田急デパートも京王デパートもなく、高層ビル街も淀橋浄水場だった時代です。西口には日本橋から移転してきたばかりの安田生命の新社屋以外、何もありませんでしたからね。それで安田生命に就職先を絞り、一社しか試験を受けませんでした。
———これまでのお仕事の経緯や、ご活躍なさったエピソードを教えてください。
事務部門で採用されたんですが、途中から営業部門に回されまして、28歳で広島支社に転勤になり、3年後に東京本社の人事へ。さらに下関支社の営業に行き、38歳の時に高知支社の支社長に就任しました。そこに5年いた後、普通ならもう少し大きな支社の支社長などを務めてから東京本社に異動するというのが定石なんですが、本社の広報室長に任命されたわけです。当時は広報の位置づけも知名度も社内的に極めて低く、高知の部下から“左遷ですね”と言われたりしました。私はあまり落ち込むタイプじゃないんですが、正直、もう少し営業をやりたかったな…とは思いました。
当時の広報室は私を含めて4人だけ。しかも歴代の広報室長たちは、そこから別の部署に早く移りたいと社内営業することに必死で、みな仕事をまともにしようとはしなかったようです。4月に転勤するなり、部下に「室長は、ここで本当に広報の仕事をやるつもりはあるんですか?」と真剣に問われたんです。あの瞬間のことは今も鮮明に覚えています。私はそれがどこであれ、「行った所でやるべきことをやる」という主義ですから、その部下と共に、当時は企画部内だった広報室を独立した部にすることと、CIを実行するという目標を掲げ、真剣に取り組みました。会社を変えるためにはCIが不可欠であると論文を書いたところ、それが賞を獲得して社内的に注目され、広報そのものの位置づけも上がっていきました。
そして広報に来て6年後には、約50億円以上をかけてCI導入に成功し、広報室も広報部に格上げされました。そのあと取締役広報部長になったのですが、広報で取締役というのは金融業界では初めてだったと思います。今は亡き社長に、しばらくしてから呼ばれ、「将来、広報は会社の重要な存在になる。だから君を広報に任命した」と言われました。それから広報畑に17年。定年を迎えるまで、広報一筋でした。
———初めて携わる広報の仕事をどのように学ばれたのですか?
広報に任命された当時は、会社の中で広報というものがほとんど認知されていなかったんです。日銀の金融記者クラブとの付き合いもほとんどなかったので、安田生命のことが新聞に採り上げられることも非常に少なかったわけです。しかも、広報について教えてくれる人が誰もいなかった。
しかし、法律には弁護士が、税務には税理士がいるように、広報にも相談相手が必要だと思い、記者クラブの担当記者たちに「安田生命を支援する会を作ってください」と頼みに行ったんです。そうしたら、共同通信の記者が中心になって支援する会を作ってくれたんです。要は飲ミュニケーションでして、朝日から読売、毎日、日経など多くの記者たちとのコミュニケーションが出来て、そこから安田生命の名が少しずつ広まっていき、広報活動のベースになりました。当時付き合っていた記者たちのほとんどの人たちと今も付き合いが続いています。現在、うちのNPOのアドバイザーになってくれている仲間も数名います。
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