| ―――どんな少女でしたか?
山口からハワイへ移民した曽祖父母の元、祖母はハワイ生まれ、母はアメリカ生まれ、私も外国人の多い神戸生まれと、小さな頃から“外国”は身近でした。祖母のおつかいの紙は、「にんじん」ではなくて「carrots」、ミルクは「milk」と、カタカナですらなかったんですよ(笑)。それに慣れていたせいか、同級生たちからは相当変わった子に見られていましたね。
―――飛行機のクルーになろうと思ったきっかけは?
1966年、高校2年生の時、ある学習参考書の出版社が募集した懸賞作文で、12万人の中から高校女子の部の一人に当選しました。そのご褒美が、ハワイに親善大使として派遣されることでした。初めての外国旅行がハワイ、というのも、我が家のルーツとの縁を感じます。当時は高嶺の花だった外国旅行に、日本から高校生の女の子がよく来たものだと、ハワイではとても歓迎されました。その行き帰りに初めて、飛行機の中で働いている人を見たのです。それが、大きなきっかけとなり、1968年に日本航空に入社。以来、40年間飛び続けたわけです。
―――当時、“スチュワーデス”のお仕事はどんな感じだったのですか?
月のうち20日間は外国、日本には残り10日間、というサイクルです。私が飛び始めた頃は、特にヨーロッパ方面で一週間に一便の地域もありましたから、一度渡ったら、次の飛行機が来るまで一週間ステイすることも少なくありませんでした。バブル時代には、ヨーロッパに作る基地の準備にと、現地に3、4カ月滞在したことも。ロンドン、コペンハーゲン、パリ、デュッセルドリュフ。今では考えられないですよね(苦笑)。
入社から退社までの40年間、日本航空の盛衰を見てきました。時代が大きく変わっていく波そのものの中に、私もいました。今はフライアテンダントと呼びますが、そう、当時は“スチュワーデス”ですね。スチュワーデスの在職条件もいろいろあったんですよ。例えば、定年年齢は時代で変化していて、ある時期には30歳定年。それが33歳になり、35歳になり、今では60歳になりました。また、結婚したら退職する、結婚してもいいが子どもができたら退職する、その後、子どもができても続けられる環境へと変遷。ただ、今は、私の若い頃のようなゆったりしたフライトスケジュールではありませんから、これからの人は40年間も飛び続けられないでしょうね。それほどハードな仕事でもあるんですよ。
———辞めようと思ったことはないのですか?
いろんな方に聞かれますが、嫌になったり辞めたくなったことは、本当にないんです。定年退職する直前には、辞めた後に東京―大阪間の飛行機に乗って制服が着たくなったらどうしよう? 仕事したくなったら私どうするの? なんて思ったほどなんです。
そして実際はどうだったかと言うと、辞めて一度も制服を着ている夢を見ていません。たぶん、全うしたのかなって。40年間の飛行時間は2万8千時間。平均時速800kmだったとして、距離に換算すると、地球560周分、月―地球29往復に相当します。これは自慢していいことなんだよって、皆さんに言っていただくんですよ。
———40年間の中で一番輝いているのは、どんな記憶ですか?
私にとっては、チーフ・パーサーを勤めたことが一番の手ごたえです。何も怖くなかった。どんなイレギュラーなことがあっても対応する自負がありました。何らかのアクシデントで遅れる、天候不良で空港にUターン、お客様の急病で緊急着陸、機内でお客様同士のトラブル。飛行機の中ではいろいろなことが起こります。太平洋にしろシベリア大陸にしろ不時着できない高度一万メートルの上空で、あのジュラルミンの物体の中に300〜500人の人間が秩序を守って存在している…。これはとても不思議なことなんです。いろいろな人種、いろいろな年齢、いろいろな目的と、抱えているいろいろな思い―。毎回が誰として同じではない人々をまとめ、コントロールし、安全とサービスを徹底して、何千キロメートルも先の目的地へお運びする。それが私なんだ、という自負です。どんな場面にも対処できるノウハウを培い、咄嗟のアドリブで英語のアナウンスをしたこともあるんですよ。度胸をつけてもらいましたね。何よりスタッフたちが、「石川チーフだったら安心して働ける」と言ってくれるのがうれしくて。日本航空が、私を訓練し、経験を積ませ、力をつけてくれたおかげだと思います。
そりゃ、私、石川真澄個人は落ち込んだりもしましたよ。いつも元気ねって言ってもらってうれしい反面、一人になると、これから私どうやって生きていくんだろう、どう生きるのが自分らしいんだろうって今も悩みます。でも、人と関わったり、相談を受けちゃったりすると、俄然張り切ってしまうんですよね(笑)。
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