Q.仕事と子育てのとの両立や
ご夫婦の関係はどんなでしたか?
娘が3歳の時に起業していますから、ベビーシッターの協力を仰ぎながらも、なるべく時間ある時は一緒にいたいと思い、印刷会社の校正や打ち合わせなどには連れて行きました。だから子ども達は私の働く背中を見ながら育ったのでしょうね。あちこち連れ歩きましたから、かなり有名でした。「マイタイ(意図したわけではないが、娘の“舞”と息子の“大”という名前をまとめるとハワイの有名なカクテルの名になる)が来た!」と。また、うちの主人の仕事には、ものすごく落差があったんですよ、いい時と悪い時の差が激しくて。「あなた、あまりにもアップダウンがあって、どうしていいかわからないわ」と喧嘩腰に私が言うと、彼は「I'm
sorry」だけ。それは彼の仕事の特性でしたから、文句を言うべきではなかったんですね……。喧嘩をするくらいなら、もし彼の収入がゼロになっても、私がこの一家4人を養えばいいんでしょう! とある時に決心、以来は主人の仕事について一切文句を言うことがなくなりました。
Q.ご主人が倒れられた時は
驚かれたのではないですか?
1999年10月に脳梗塞で主人が倒れてました。腕がだらんと垂れ、口が利けない、足も動かない状態で病院に運ばれたんです。まさに、青天の霹靂。その後、リハビリ施設へ入れましたが、とても嫌がりました。私がいないと食事をしないので、毎日、毎日、1日1回は顔を見せに行きましたね。それでも彼は脱出して、家に帰るんだと言って聞かないので、家に戻したんですよ。ケアの専門家が三交代で面倒を見たんですが、彼は「ナーシ、ナーシ」と呼ぶんです、私を。今寝入ったばかりなのにと思うと「アイスクリーム」「シャーベット」「ジュース」とか言って、私にばかり甘える。こちらは仕事も抱えていてクタクタになったので、また病院に移したんですね。そこでクリスマスを迎えた後、肺炎になり、命拾いをしました。それが12月の末でしたね。その後の回復は順調に思えていました。
Q.ダーリンが「I love you」と
何度も囁かれたとか……
3月初旬に病院にいる娘から連絡があり、お父さんの呼吸の仕方がひどいって言うんです。主治医は「風邪だ」と言いましたが、私の勘で、肺炎が再発したなと感じたので救急車の「911」に電話をし、大病院のエマージェンシールームで救急車を待っていました。そこへ本人がやって来て、不思議なんですよね、唇で「I
love you」と、声はしないんですが「ハーハー、ヒュー」というのが7回ぐらい聞こえるんですよ。だから私も「I
love you、大丈夫よ、あなたは治るわよ」と伝えました。彼の様子が少し落ち着いた頃、周囲が「このままではあなたも倒れるから、今晩はうちに帰りなさい」と言うのでイヤイヤながら(なぜかこの夜だけは病室に一緒にいたがったので…)帰りました。家でうとうとしていたら、娘の部屋に「今、お父さんが亡くなりました」と連絡があったんです。とても悲しい話ですが彼の「I
love you」は、亡くなる2時間前の言葉だったんですね。本当に「I
love you」と7回も言ってくれたの。それが最後の私へのメッセージでした。でも、私も子ども達も誰も死に目に会えませんでした。それが今でも100%心残りです。それからの18日間は、お葬式が来る日を待ちながら、みなさんへ案内状を出したり、埋葬用のお棺を選んだり、喪服を探しに行ったりして過ごしました。それが唯一、私がハワイで起業してから取った長期休暇。今でも「梨本さん、休暇を取ったことある?」と聞かれると「主人が亡くなったときだけなの」と言います。みんな「かわいそうね」と言うけど本当にそうなの。長くお休みしたのはその時だけ。
私は何でも信じて進むタイプなので「絶対、この人は生かせるんだ」と信じていたんですが、これだけは叶いませんでしたね。死というものから彼を救うことはできなかった。私の人生の中で父や母、姉を亡くしていますが、その家族を失うことと、主人を失うことは感覚が全く違いました。自分が育った家の家族というのは生まれた時からそこに存在しますよね、しかし、主人は私が何百万人の人の中から選んだ人、しかも2回目で、条件までつけた結婚だったじゃないですか、私のすべて受け入れてくれた最愛の彼の死は、悲しみの深さが違うんですよ。もちろん、比べられるものでもないのですが、この深い悲しみは今でも引きずっているんです。 |